御掘堂四方山話

「大内時代」を想う

 旅をしているとしばしば「小京都」とよばれる町をよく見かけます。趣があり且つ雅で古風な街並みと、穏やかではんなりとした人々が住む町のことを云うのでしょうか。
 室町戦国時代、「西の京」「西の都」と世の人々にいわしめた文化と街並みを誇る国際都市がここ山口にはありました。その時代を山口に住む私たちは「大内時代」とよび、そしてその時代に花開き、栄華を極めた文化を「大内文化」と称しています。

 大内氏は24代弘世のとき山口に館をかまえ開府、以後30代義隆までのおよそ200年間、中国地方から九州北部にかけて支配し、室町幕府、公家にも大きな影響をおよぼす一大勢力を誇る戦国大名として君臨しました。また朝鮮や明国との貿易で大陸文化を学び、かつ京都をはじめ様々なところから、神社仏閣、禅僧、公家、文化人を多く招へい、勧進し、また30代義隆に至っては聖フランシスコ=サビエルにキリスト教布教の許可を与えるなど、国内外の文化を柔軟に取り入れた国際都市を、それに伴う輝かしい文化をここ山口に創り上げたのです。

 山口外郎も一説によるとその「大内時代」に創生されたと伝えられています。他の地域の外郎とは異なる風合いや味わい、そして何とも言えぬ弾力から想像するに、かつての「大内時代」、国内外の文化が入り混じる「大内文化」華やかかりし時代に創られたものとして山口外郎があることに、何の違和感もなく受け入れられるような気がいたします。
「大内時代」に想いを馳せて。いま2010年。山口市は24代大内弘世による山口開府650周年を迎えました。
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「山口外郎」と「梅の花」

 「梅の花」というと皆さんはどんなイメージをおもちになりますか?
 和歌において花といえば「梅の花」をあらわすように、春の到来を告げ、その穏やかな香りと可愛らしい佇まいは、古より「菊」「桜」などとともに日本人の心をあらわす花の象徴でありました。
 そして「梅の花」は「山口外郎」にもなじみの深い象徴的な花なのです。
 山口市の大内御堀にある山口外郎元祖福田屋には美しい梅林があり、そして邸内には松尾芭蕉の句碑「梅が香にのつと日のでる山路かな」がひっそりとたっています。
 福田百合子著「外郎の家」によると、福田屋中興の祖、福田文吉郎翁はこよなく梅を愛したそうです。

 「文吉郎は、梅を愛した。旭と梅を号とし、梅旭と呼ばれ、外郎屋の屋号をも梅旭堂と称した。外郎のレッテルは、和紙に朱で、木版刷の紅梅が枝に満開の図柄であった。」
 (福田百合子著 「外郎の家」 毎日新聞社 p.172より引用)

 御堀堂で使われている掛け紙には、以前福田屋で使われていた紅梅のレッテルをモチーフにした梅の図柄のものがあり、御堀堂創業時からほとんど変わらぬデザインで今日に至っています。御堀堂の外郎の味わいは、まさしく梅の花のもつ優しく穏やかな気品に共通するものであり、古都山口の味わいのなのです。
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お人好しの順助さん

 初代田中順助は「お人よしの順助さん」という愛称でご近所に親しまれていました。
 また、若い時はとても男前でおしゃれな人だったそうです。
 とてもやさしいお爺さんだったそうで、初めての孫娘のトヨ子ちゃんにお菓子を買ってあげたり遊びに連れて行ってあげたり、それはもう目に入れても痛くないほど可愛がっていたそうです。
でもこんなこともありました。
 小さなトヨ子ちゃんを床屋さんに連れて行った順助さん。
 床屋のおじさんに「可愛くしておくれ」とご注文。
 パチパチと髪の毛を切られて、出来上がったスタイルは可愛いおかっぱ頭。でも順助さんはお気に召さなかったようで「可愛い孫娘をなんて髪型にしてくれたんじゃ?!」と床屋さんをずいぶんお叱りになったとか…。なるほど可愛い孫娘のためならやさしくてお人好しの順助さんもこわいお爺さんに変身したりするのですね。
 ところでトヨ子ちゃんは今ではやさしいおばあちゃん。
今でもおしゃれなのは順助さんの影響なのですね。

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多くの文人にも愛された山口外郎

 山口外郎は中原中也、宇野千代など山口にゆかりのある文人にも愛されました。
 山口が生んだ詩人、中原中也は故郷山口に帰るたびにお土産として外郎をさげて東京へ戻っていったそうです。
  また、美しい文章のみならず食べ物にも造詣が深かった宇野千代は 「峠の茶屋で休んで、外郎と言う、白い羊羹とかいが餅を食べるのが楽しみであった。」と述べています。
  さらに歴史小説の大家、司馬遼太郎は「街道をゆく」の長州路では、山口湯田温泉「松田屋ホテル」に逗留し、茶菓子として「御堀堂の外郎」をお召し上がりの件で、 長い文化の伝統、成熟した文化がなければこのような菓子は生まれないと山口外郎と山口の文化について述べられております。
 実に光栄なことでございます。
  山口外郎は他にも書ききれないほど多くの文化人、著名な方々にも愛され、親しまれてきました。
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街道筋の風景と山口外郎

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 外郎屋御堀堂の母である福田屋は山口から三田尻(防府)へ向かう街道筋の大内御堀にありました。
 昭和の初めの街道筋の風景をご存知の方に聞くと、街道筋に沿って松の木が立ち並び、街道を行きかう人は多かったそうです。
 大内御堀は市街地への入口。そこにある外郎福田屋の前には松の木と井戸、赤い毛氈(もうせん)を敷いた床几(しょうぎ)がいくつも置いてあり、街道を行き交う人がひと休みに番茶で外郎を楽しんでいました。
 奥の蔵では外郎職人たちが汗を流しながら山口外郎を蒸しあげ、店の軒先では「くし(外郎を切る道具)」と糸で外郎を切り分け、竹の皮に包み、水引きで結んでお客さんに渡していたそうです。
 午後には番カラの学生が大勢おとずれ、店の前で大きな外郎を番茶と一緒にむしゃむしゃと食べて小腹を満たして街道を歩いて帰っていったそうです。
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山口名菓 御堀堂

TEL0120・601・106【営業時間 9:00〜17:00】 FAX0120・633・774